J 「天地のリズムにのった信心。成り行きを尊ぶ。」

昭和五十七年二月二十三日 朝の御理解
x御理解 第十二節 「神に会おうと思えば、にわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」


 某教会の初代教会長のお話だと私、承っておるんですけれども、ある時のお話に、神様があるのないのという人は、先ず一辺教会の門を叩いてみよ、と、必ず中から、ど-れというて出て見える。というお話があります、ね。
 神に会いたいと思えば、にわの口を出てみよ、空が神だ、下が神だというふうにも思うんですけれども、ね。その、神とわかっただけではなくて、神のそのう、働きを知り又、どういう働きをして下さる神様かという事を体験していく、という事が信心だと思うです。それには、本当にそのう、物言えばそれに答えて下さるような、返事をして下さるような私は神様を頂きたい。先ず教会の門を叩いてみろと。
 これも甘木のお話と聞いておりますけども、ある時甘木では、親先生が奉仕をされる後ろの方で、又、修行生の方が奉仕をしておられたそうですね。
 ある時、はじめてお参りをしてきた方に対して、金光様でいう神様とはという質問のような事に対して、もうそれこそ、天地の大恩をもう、それこそ丁寧に時間をかけてお説きになったそうです。それで参って来た人も、はあ、も、本当にようわかりましたというて、ま、喜んで帰ったという。で、後ろに控えておった先生が、今日のあの方はわかりがよかったから、おそらくよい信心になるでしょうね、というて申しあげたら、先生がおっしゃったそうです。
 あんまり早よわかりすぎたから、もう、参っちゃこんよとおっしゃったそうです。 金光様の神様ってそんな神様ですよ、ね、なら頭で合点した、わかったというだけでは、これは信心はでけません、ね。
 あれほど懇切丁寧に親先生がお説きになったのですから、しかも、なら、本人はもう、はあ、もうようわかりましたと言うて喜んで帰ったんだから、よい信心が出来るだろうとこういった。ところが、あんまり早よわかりすぎたからもう、参っちゃこんよち、いわっしゃったち、ね。
 ま、そういうところにね、私は金光様の御信心の例えば、昨日竹内先生宛に名古屋の森さんという熱心な御信心をなさる方が、先だっては信心のない息子さんも一緒にそしてこの度は森家の改式までして、一晩か二晩か泊まって帰られましたが、こちらでおかげ頂いて、あちらのホ-ルの二階に泊まられたんでしょう。もう朝方まで隣の部屋でもう何こう宴会か何かがあっておって、賑やかな様子をずっと、まあ、頂き続けられたというお届けがありました。
 もう、本当に心がウキウキとしてというのです。昨日のお手紙を私、聞かしてもらいましたが、もう、とにかく、今まで長い、ま、様々な様々な、金光様一本ですけども、も、本当に、本当の金光様の御信心とはというのを求め続けて、まあ、あちらこちらにお徳の高い先生がおられる、御比礼の輝く教会がある、といやあお参りをさして頂きましたけれども、ね、合楽に御縁を頂いてはじめて金光様の御信心の、いわゆる本当なものに出会えたという喜びをいっぱい綴ってあります。
 そして、合楽の場合はその気になって合楽に傾倒したその時点から、神様の生き生きとした、いうなら素晴らしい天地のリズム音が聞こえてき、そのリズムに乗っての生き方というのは、もう、それこそ置いた物をとるような万事万端御都合御繰り合わせの中におかげを頂いております。と書いてこう書いてあるんです、ね。
 これほどしのおかげを頂いて、さあ、これから、こりゃどうしょうかという事が書いてありますね。もう、こりゃどうしょうかというて迷うのではなくて、これだけの神様の生き生きとした働きを受け続けて、合楽に傾倒した時点からおかげを受けておるが、ね。この頂いておる今日、日々のおかげを、こりゃどうしょうかといっておるんです。はあ、困ったもんじゃあると、そういう意味じゃなく、こりゃどうしょうかという事の中にです、これからどういう信心になっていったらよかろうかという、響きを私は読んでもらいながら感じたんです。
 皆さん、どうですか。皆さんのこの合楽での御縁を頂いて、おかげを受けられて本当にこりゃどうしょうかと、これから先の、この信心をどう皆さんにお伝えしていこうか、子供にも孫にも伝わるような信心とは、なら、こりゃ、いよいよそこに思いを深くしなければ私はならない、ね。
 合楽教会でお泊まりのおかげを頂いた時に、大変賑やかなそのお夢を頂き続けておってです、ま、昨日研修の時にお話した事でしたけれども、例えば、そこに三味線、太鼓で賑おうておってもですよ、只、心が浮いただけじゃつまらん。やはりこれは、ま、私の道楽しとりますから、あのう、三味線を弾いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりといったような事をやりましたが、確かにね、あのう、隣の部屋で三味線の調子を、あ、今から三味線と思うただけで心がウキウキしてくるですね。カ-ッとしてくるです。そして、そこに弾き出したその歌を自分が知っておるならば歌わずにはおれないです。又、そこに踊りの地なら踊りの地がそこにまあ伴奏されますとね、それにのって踊らにゃできんような心が生まれてくるです。
 だから歌を知っとらなければ、三味線を知っとらなければ、踊りを踊りきらなければできんでしょうが、ね。
 私はこの森さんの場合はね、今迄長い間にお道の信心とはというその踊りの手も知っておられたから、もう、早速ウキウキとしてその、歌ったり踊ったりしておられる それが合楽におかげを頂いた時の、お夢のお知らせであろうといったような事が書いてあります、ね。
 どんなに素晴らしいリズムが聞こえてきても、なら、歌を知らなかったら、歌一つ出らないでしょうが、ね。只、カ-ッとなるというだけじゃいかん。
 自分もそれに歌えたり、踊れたりする為にその歌の稽古がいるのであり、踊りの稽古がいるのである。
 昨日は『助かりの開眼」という事を頂きましたね。まあ、あのようなふうにあの程度に説かれたんですけども、昨日、福岡の船員さん達があそこ熱心にお参りをしておられる方達を二人、三人でしたか同道で参拝をして見えました。して、今朝方から親先生御祈念中に、成り行きの上達という事を頂きましたというんですよね。
 成り行きを尊ぶとか大切にするとか言うでしょ。その上達、私、それを聞きながらあのう、今朝の御理解の答えですなあと言うてとにかく、今朝の御理解、短い御理解だから一辺聞いて下さい。と言うてまあ皆さんに申しました事でしたけれどもね、ね 助かりの、いうならば開眼というのはね、もう、いよいよもって成り行きを徹底して願い、頂いていく以外にはないんだと、本当にわかった時に、助かりの開眼がでけたんだと思うですね。それを信じられた時に、ね。この事だけは成り行きというわけにはいかん、この事だけは、まあ、頂かなんなるめばってん頂ききらんといったよな事ではなくて、上達していかなきゃ、いよいよ成り行きを大切にする。尊ばしてもらう、成り行きを願うていくという信心がもう限りなく上達していくという事が、ね。 これは、いうなら、助かりの開眼というものが出来なければ、それを限りない精進にしていく事が出来んです。こういう素晴らしい事を頂いて、これから、さあ、どうしょうかというような心をおこさな駄目です。
 只、頂かなんならん事、願うても願いが成就しない、どうしてじゃろかといったような信心で、信心が続けられておったんではおかげになりません。
 昨日は沢山、丁度夕食前に、あっちこっちからいくつもお御馳走を頂いて、大きなフグの刺し身やら、フグのチリをもうだけではなくて、もう、それこそ、指折り数えて私が忘れてしまうくらいに沢山な、お御馳走がまいりましたから、昨日は子供達も一緒に夕食をさせてもらいました。
 本当にはじめから、最後まで最高以上の最高といったような、ま、お食事をせて頂いて有り難い事だなあ、もう、とにかくまあ勿体ない事だなあというて、神様に御礼申させて頂いておりましたらね、あのう、z『猫がもう死にかかっておるような、もうだら-っとなった猫を抱いて深々と神様に御礼を申しあげておるような姿』を頂いたです。はあ、私、又一つ有り難い事がわからせて頂いたんですけれども、猫のお知らせは不成といわれる。お道でいう不成とは「成就せん事だ」と四神様は教えておられます、ね。ですから本当はね、例えば、なら、昨日の私共の食事の中に、もう、これ以上はもう、食べ物の上にでもなかろう。これ以上の飲み物はもうなかろう、ね。
 例えば、お酒ならお酒でもあの幻の酒という世界一高いという、あのお酒を出してありました。最後には、もうこれは、世界一といわれる紅茶に素晴らしいあのケ-キのデザ-トが出ました。もうそん中には、もうとにかく、数えきれないほどに、珍しい様々な物がいっぱい。昨日私はそれを、矢野先生と田中先生が奉仕してくれ、勿論勝手の方でつくる。その奉仕をしている人達がですたい、どうしてこういう事が出来るであろうかと思うたであろうと思いましたね。はい。
 勿論、私共の子供達もそれを感じただろうと思うんです。どうしてこういう事が出来るで-あれがなかけんあればいっちょ買うてこいというのじゃなくて、ね、それこそ、夢にも思わないようなものがそこに集まっておって、ま、食膳を賑わっておるという事、ね。おそらく私は、あの矢野先生じゃない、中村アツ子先生ですね。
 あの、先生あたりが直接こうやって奉仕をしてくれながらです、どうしてこういう事が出来るであろうかと思うたであろうと、思うような感じで食事を終わらせて頂いたら、今申しますよな事でございました。
 本当いうたらね、ここにまあ、例えば、チリならチリね、フグチリの時にここにカボスか何かがあったら、普通の酢でなくて、カボスがあったらもっとよかろうなあと思うて、思うくらいが丁度いいです。ところが、合楽の場合はカボスがちゃんと出てくるんです。ね、ここにまいっちょあれがあると足らんごたる。ここにまいっちょあれがあるとまあだよかったばってん、ね。というくらいな事がかえっておかげなんだ もう、あれも成就というような事があながち本当のおかげじゃない。
 あまりにも整いすぎ、あまりにも頂きすぎておるという事なんですけれどもですね お互いがあれが成就しないこれが成就しないというけども、その成就しないという事、その事に私はもう、それこそ深々と御礼を申しあげなければならんと思いますね はあ、家の嫁ごがいっちょ信心してくれるとか、家の息子がこうとか、例えば思うような事でもですね、そう思うちゃいかんです、ね。
 そりゃもう、それにこした事はありません、ね。けどもそこに一つくらい成就しない事があるという事をです、もう、それこそ、神様に深々と御礼を申しあげ、その以外の事がこのようにおかげを受けておるのであるから、ね。成就しない事に対して、深々と御礼を申しあげねはならないなあ、本当いうたら麦飯に沢庵でもよい、腹いっぱいおいしゅう頂けるという事が最高なんだ本当は。
 私共なんかそんなに沢山な、なら、お御馳走が出ておりますけど、ほんな一切れづつしか、ほう、これは珍しいねえと言うて、ま、頂くのですからね。
 それよりか、むしろお腹を空かして、それこそ麦飯のぽっぽするとで沢庵なら沢庵だけであ-おいしかったというて腹一杯たべれる方がおかげだという事、ね。
 お互い信心の場合ね、そんなにあれも成就これも成就といったような事は実際はないけど昨日の私共の食卓の上に感じた事は確かに、そういう例えば、私共は御礼を申しあげねばならない事にどうしてこれだけ、こげんおかげ頂っきらんじゃろかというのじゃなくてはいかん。やっぱ御礼の申しあげられるような信心と例えば、んな、皆さん今日御理解を頂かれて、今日からそういう、なら、姿勢になられるとです、もうそこに神様がそれこそ教会の門を叩いてみよと甘木がおっしゃったというように、教えを本当に頂いた、にわの口に出てみよといわれるから出て見なければ、天地が拝めないように合楽で頂く御理解を、本当にその場から実行する気になると、そこには確かな手応えがあるです。
 その名古屋の森さんじゃないけども、それこそ、今まで長い間あっちこっちで信心させて頂いて、ね、いうなら、真から真の信心を求め続けた。
 けれども、合楽に御縁を頂いてはじめてわかったところから、もう、それこそ今迄感じた事のなかった、まあ、いうならば、、例えば、ある知人の所へ病院に入院しとられるというからお見舞いに行こうと思うてバスの停留所まで行った。行った事が無いところだから、どこでバスを降りたらよいやろかと聞きよった。そこに居った若い青年学生さんが、ああ、その病院なら僕が行っておるから、僕の車に乗って下さい、と言うて乗せられた。そして五階まで自分の方の家、勝手知れた家のようにして案内して下さった。
 向こうへ着いて大変、ま、喜んで頂いてたら帰りにそこの息子さんが帰られると言うのでばばしゃま一緒にお送りしましょうと言うて、ま、送って頂いたというようなその、まあ、合楽的いわゆる素晴らしきタイミングですよね。それにおうていけれるという事が、今迄かって、こういう体験をした事がなかったと、いかに、合楽理念が素晴らしく間違いないか、だからそれに傾倒して、実験しなければそういう働きは生まれてこないて、ね。体験しなければ、そこになら、ね、神に会いたいと思えばにわの口に出てみなけれはならない。
 神様がござるか、ござらんかを知る為には先ず、教会の門を叩いてみなければならない。その神様を生き生きとしたどういう働きをして下さるかという事をわからせて頂く為には、合楽でいうならば、合楽理念の実験実証をいよいよ本気でさして事である。なら、昨日の御理解にひき続いていうならば、いよいよ助かりの開眼をせて頂く為にね、いよいよ、成り行きの上達を願わなければならない、ね。
 そこにです、いうならば、歌も覚えた。踊りも覚えた、そこに、なら、宴会があっておる。その歌の伴奏が聞こえて来たら歌わずにはおられない。ね、
 自分の知っておる踊りが、そこに相方がそれがそれ弾きなさるならば、もう、ウキウキして踊らずにはおられない。歌を覚えとかなければ、踊りを覚えとかなければ、なら、どんなに素晴らしいリズムが流れてきても踊る事すらも出来ない。
 森さんの場合は長年の間に、それを覚えるだけは覚えておったけれども、伴奏がなかった、今迄は、だからリズムがなかったね。ところが合楽におかげを頂いて、もう合楽というその、傾倒されたところから、もう、リズムが聞こえてくるようになったという事なんです。そこから、いよいよ神様を、はあ、これが神様だなとわかるだけでなく、はあ、これが神様の働きだなあとわかるだけではなく、それを自分の力として、頂いていく事の為にいよいよね、御礼を申しあげるところは御礼を申しあげての願いでなからなきゃならんという事になりますね。
                   どうぞ。